先日、「フェイスブック」を見ていたら知人の稲田好信さんが【シェアします。目に見えない存在を確信している私としては、このお母さんが、優太君を助けたい母性が、肉体の死後も存在していたことを信じます・・・】と投稿されてましたので覗いて見たところ大変感銘を受けました。
多くの方々に読んで頂きたいと思いましたのでご紹介いたします。
☆皆川優太君のこと
2004年10月23日に新潟県中越地方震源とする地震が発生しました。最大震度7を観測した大地震だったのですが、この時のある救出劇が感動を呼んだことを憶えてられるでしょうか。
「平成16年の新潟建中越地震」で車ごと土砂崩れに巻き込まれ、約92時間後に救出された皆川優太君(11)は小学校6年生になった。友達と野球をしたり、祖父、敏雄さん(77)と将棋をさしたり、残り半年となった小学校生活を楽しんでいる。
優太君の家の客間には、13日亡くなった漫画家やなせたかしさんから贈られた色紙が飾られている。「優太君へ。はやくげんきになってね。アンパンマンがついてるよ」とのメッセージとともに、赤いマントを羽織ったアンパンマンが描かれた色紙は宝物だ。地震から1週間ほど後に郵送されてきたという。現在は新潟県魚沼市で祖父母と暮らし、慎重は150㎝を超えた。
車に同乗して亡くなった母、貴子さん(当時39歳)と姉、真優ちゃん(当時3歳)の思い出話に聞いていることもあるが、祖父の敏雄さんは「寂しい様子をみせたことはない。じいちゃんとばあちゃんと3人でいるのが当たり前だと思っているんじゃないかな」と話す。新潟県長岡市の事故現場は11年にメモリアルパークに整備された。時々敏雄さんらと手を合わせているという。
この感動的な救出のニュースを息を呑んでご覧になった方もいらっしゃるのでは内でしょうか。
通常は土砂に巻き込まれたりして生き埋めになった人の救出は、72時間(3日間)が生死の境目になると言われています。
しかし優太君が救出されたのは92時間、4日後だったのです。救出されて本当に良かったですね。
ここからが今日の記事のメーンになるのですが、優太君がレスキュー隊に助けられた時に、「お母さんと一緒で、ずっと励ましてくれたから怖くなかったよ」「お母さんが歌を歌ってくれてたんだよ」と話したということが伝えられています。
崩落現場に到着した隊員が「女性の声が聞こえます!」「子供がいると言ってます!」と言ったことでテレビの中継画面には「2名生存」というテロップが流れました。
しかし・・・お母さんは車が崩落した岩石や土砂の下敷きになった時に「即死」していたことが判明しました。お母さんは亡くなっていました。
では、優太君が「お母さんがずっと一緒いて怖くなかった」「お母さんが歌を歌ってくれていた」というのはどう理解したらいいのでしょう。・・・
そして現場に到着した隊員がはっきりと女性の声を聞いたということ。それで子供がいることが分かったことはどう理解したらいいのでしょう。
死してもなお愛する子供の傍に留まり励まし続け、隊員に「子供がいます!」と伝えたお母さん。
母の愛が92時間もの間、子供が生き続ける力になったことは明らかですね。
それともう1つ・・・。
優太君が、なぜ車の外に居たのかもわかっていないそうです。
車と、岩石の僅かな空間に居たことも生き延びる原因になったということです・・・
この世界には、人間の知恵では理解出来ないことが起こるということを教えられた出来事でした。
最後になりますが、私達が、今日朝を迎えることが出来たことも、大きな奇跡かもしれませんね。2013/10/31
息子が西野塾で出会い、現在もお世話になっている脚本家の伊沢満先生作のTVドラマが平成27年1月4日(日)夜9時からTBS/MBS系全国ネットで放送されます。「新春ドラマ特別企画 わが家」というタイトルです。向井 理、田中裕子、村川絵梨、長塚京三他の出演です。先生の作品は先生の人柄のように、見る人たちの心を暖かくする物語です。私も今回の作品を楽しみにしております。時間があれば、是非皆さんもご覧ください。(^_^)よろしくお願いします。
急激な温度変化で血圧が急上昇、急降下することなどが原因となり起こる、失神や心筋梗塞、不整脈、脳梗塞等を「ヒートショック」と言うそうです。
浴室やトイレは北側にあることが多いですよね。
冬場の浴室、トイレは暖かい居間や布団の中から寒い場所に移動するので、熱を奪われまいとして血管が縮み、血圧が急にあがります。
お湯につかると血管が広がって急に血圧が下がり、血圧が何回も変動します。
こういう血圧の変動は心臓に負担をかけ、心筋梗塞や脳卒中につながりかねません。
この対策のため脱衣所、浴室、トイレを暖かくしましょう。
脱衣室やトイレに暖房機を付けるのも良いと思います。洋便器でしたら、便座にヒターがついているものにしましょう。
熱は窓から一番多く出入りしていますので、ガラスに断熱効果のあるシートを貼るのもお勧めです。(プチプチを貼るのもいいですよ)
浴室に入る前に浴槽の蓋を開け、さらに床にお湯をまき,浴室を暖めておくのも良いですね。浴室の床にマットや簀の子を敷くのも効果があります。
安全な入浴法
①入浴は42度未満のぬるめのお湯に入り、長湯は避けた方が良いそうです。
②飲酒後は入浴しない。
③入浴前後に水分補給をする。
④つかるのは胸まで。
⑤脈拍血圧、呼吸などが変動しやすい朝の入浴は避ける
入浴中にヒートショックで亡くなる方は、全国で年間約1万4000人位いるそうです。
※これから新築あるいはリフォームをお考えの方は是非「ヒートショック」が起こりにくい断熱性能の良い、サイエンスホームで家造りをしましょう。宣伝でした。(^_^;)
若い頃の愛読書の一冊に吉川英治先生の「宮本武蔵」がありました。武蔵の恋人お通を振り切り、道を求める姿に感じ入っておりました。
高知と違って東京では通勤網が整っておりますので、現場に行くのも電車で通勤します。ところがその頃ミニスカートが流行っておりました。
前に若い女性が座ったら、どうしても目が膝あたりにいってしまいます。(^_^;)
見たらいかん!と思っても盗み目をしてしまいます。これは私だけかもしれませんが?・・・。
しかし健全な精神と身体を持った普通の若い男性だったら、興味がなかったらおかしいと思います。
でも、聖書のなかに「・・・されど汝らに告ぐ、すべて色情を懐きて女を見るものは、すでに心のうち姦淫したるなり。もし汝の目なんじを躓かせば出して、くじり出して捨てよ、・・・」とあるのを知っていたこともあり、俺は駄目だな~と悩んだこともありました。
とてもじゃないけど、武蔵にはなれません。
しかし武蔵の「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」の言葉は、現在も家の居間の壁に貼り、励みと(眺めて)しております。(^_^;)
一番最初の現場の主任はU主任でした。
めったに現場には出て来ませんでしたが、毎朝必ず10時頃には「現場はどうだい!・・・」って電話をくれました。
わからない事があれば丁寧に教えてくれました。
怒られた事の記憶がありません。
躯体工事のコンクリートも打ち上がり、仕上げの墨だしをしたところ、前面のコンクリートが大きく膨らんでおります。その部分を斫り取らないといけなくなりました。何十万円という余分なお金が要ります。
参ったな~と思っていたら主任が「○○円位かかるけど、大丈夫だよ、岡林君の勉強代だと思えば安いものだよ!」って言ってくれました。
U主任は岩本組のエリートでした。
ガミガミ言わないけど人柄のいい、肚のすわった大きな主任でした。
初めて現場で監督さんをしていた頃、監督としての業務が何も出来ないので現場の掃除をしたり、職人さん達の手伝いをしたりしておりました。夏だったので汗びっしょりになり、服も、ズボンもそれが乾くと白い塩がふいていました。
現場が本社に近いせいだったでしょうか?社長がひょっこり現場に来ました。
私の格好をみて「岡林君、一生懸命仕事をしているのはわかるのですが、その格好ではまずいよ、君たちは会社の看板だ。きちっとした服装をしていてください。」と言われてしまいました。
あの頃は平気でしたねえ。汚れた格好で着替えもせず安全靴を履き、京浜東北線の電車に乗っていました。
独身寮でしたので洗濯物も着替えが無くなったら仕方なしに自分でやっていました。普通、人は見かけで判断されます。見てくれも大事なんですね。
M銀行M支店新築工事現場の夜のミーティングはヤカンで酒を沸かしながら続きました。
痩せ気味だった身体が少し太ったのを覚えています。(きちんと定期的に酒を頂くと太るんですね(^_^;))
近所のラーメン屋さんからツマミを出前してもらっていたので、店員のYちゃんとはすっかり仲良くなっていました。
この娘は目の縁を狸のように塗っていたのでこれは遊んでいる子かな?と勝手に思ってたのですが、現場が終わるまでの半年間つきあってみるとまるで大違いでした。
親思いの真面目で、働き者で店でも人気者でした。
現場が終わり何年かして銀行の用事で行ってみると、お店の娘さんが、「Yちゃん、田舎の人と結婚したのでやめました」「岡林さんに会ったらよろしく言っといて」という言伝でした。
あの娘ならきっといい家庭を築いていると思います。
ほんとうに人は見かけだけで判断したらいかんと強く思ったことでした。
今朝(平成26年12月12日)のNHKのテレビでCSA(地域支援型農業)という取り組みについて放送がありました。今までの農業のあり方では、農協や市場等に野菜などを出荷し販売するのが多かったようですが、最近は消費者や販売業者(スーパー等)と直に契約して販売する方法も多くなっているようです。ただこれには価格の競争や数量、その他の問題が沢山あるようです。
CSAは無農薬、有機肥料の野菜を農家と消費者(会員)が年間契約して取引します。だいたい4人家族で14万円/年くらいだそうです。この会費を農家に先払いし、農家はそのお金で野菜作りの運営をします。運営資金が先に入るので農家は大変資金繰りが楽になってきます。
最近の消費者は健康意識が高くなり、本当に安全な、美味しい物を求める人が多くなっているようです。見かけや形よりも体のためになる本物の野菜を・・・。(最近の病気の原因の多くが食事にあるように私は思っています。)
ただし無農薬で作りますのでリスクは多いようです。
大量の害虫が発生し収穫が半減するというような事もあるわけです。
・・・でこれは、安全な美味しい野菜を手に入れるため、たとえ収穫量が少なくなっても仕方が無い、ということを納得出来る者が会員となることが出来るわけです。
そのような双方の信頼関係があるので、価格の競走をすることもないし、農家は本来の、ひたすら良い野菜を作ることに専念できます。これはこれからの農業のあり方、生き方を示しているのではないかと思いました。
建築を生業にしている私にも何かヒントがあるように思われます。
M銀行M支店の新築現場は、K主任とO先輩と私の3人が担当でした。
K主任はいつも朝10時から11時頃のご出勤です。
来るとすぐ、ミーティングと称してお説教です。
夕方も[おい!今日はミーティングをするぞ!]と言ったら、[酒]や[スルメ]などのツマミを調達したり、近所のラーメン屋さんに出前をしてもらったりして、現場事務所で一杯やりながらK主任の話を聞きました。今でも憶えています。K主任の名文句[落つれば同じ谷川の水・・・]こんな時の呑み食いの費用はすべて主任持ちでした。
(・・・このようにK主任にして頂いたので後年、私に部下が出来たとき、私の財布はいつもピーピーになりました。(>_<) 母が見かねて[靴を買いなさい]とくれたお金がすぐに何回も飲み代に消えていきました。m(_ _)m)
朝は朝食を早く済ませ、O先輩よりも一足早く出て、現場には先に行くようにしていました。O先輩に負けたくないので、がむしゃらに頑張りました。
工事もだいぶ進み仕上げ段階になった頃、新しい現場がでたとの事でO先輩はその現場に行ってしまいました。
居なくなって分かりました。(^_^;)
あれも、これも全部O先輩が段取りしていてくれたんだな~と・・・。その時初めて先輩の偉さ、有り難さが分かりました。m(_ _)m
小学生の頃だったと思います。梨の木だったと思うのですが登っていて、突然枝がポキッ!て折れて落下した事があります。気がついたら枝をしっかり握りぶら下がっておりました。危ないところでした。何かその時から自分は[守られている]というような気がしています。後年独立してからの時ですが、コンクリートの大きな浄化槽設置の現場で3m位下まで落下した事があります。大きな鉄筋が上向きに何十本もあるその間のちょうど鉄筋の無い場所に・・・。(^_^;)命を落とすところでした。
神戸に居た19歳頃には電話がかかる直前に[あっ!誰々から電話がかかる]というのが時々分かりました。
これも神戸時代ですが、夕方ベッドでウトウト(-_-)していたら入り口のドアのガャッと開く音がしました。続いて寝室の引き戸がスーと開き、横向きになっていた私の肩の上になにかが乗りました。
[猫かな?]と思い振り返ろうとしましたが体が動きません。同時に[ヒュー!ドロドロ・・・]という映画やテレビで聞いたことのある幽霊が出るときの音によく似た音が聞こえました。背筋がゾ~として冷や汗が流れました。(^_^;)これが金縛りになる最初の体験でした。
あとで思ったのですがあの幽霊の[ヒュー!ドロドロ・・・]という音は霊的な人が聞いたのを、あのように作ったのではないでしょうか?
3棟目の現場です。銀行の店舗の新築現場でした。基礎工事が終わり土間の土工事の時でした。
現場をチェックしたら施工図と違っている箇所がありましたので、土工に東京弁で?[だめだよ!図面とこれは違ってるじゃん!]と偉そうに言ったら、土方の親方がえらく怒こりだし、果てにはスコップを持って追っかけてきました。必死で逃げましたが、土工さんはそれから3日ほど現場来ませんでした(^_^;)
施工前に相手によく分かるように説明し、作業途中もチェックをすることを怠っていました。頭ごなしにミスを指摘するのも若気の至りでした。事を分けて穏やかに話し、また相手のことを思いやる気持ちが無かったのでした。m(_ _)m
しかしこの後、この鳶、土工の親方とは仲良くなり、よくして頂きました。
よくご馳走になったトンカツを今でも思い出します。
また私が岩本組を退職する時には、お別れの宴をもうけてくれました。
若い嫁さんを連れていた親方、お元気でしょうか?
新入社員歓迎会の時、「あなたは高知の男だから、お酒は強いでしょう!」というので、根が馬鹿なものですのから、沢山いる皆さんにお酒を注いでまわりました。
・・・どうやって帰ったのか、全く記憶にございません。(^_^;)
部屋に帰って寝転ぶと天井が回っています。目を閉じてもやはり天井は回っております。
いや~この気持ちの悪いことといったらありません(^_^;)
(この後、懲りずに天井が回る経験を2回ほどしました)
3棟目の現場でした。「顔あわせ」というので一杯やることになり、下請けのメンバーを集め、酒を酌み交わせ盛り上がっている真っ最中、下請けの型枠大工の親方と運送屋の社長が大喧嘩を始めました。
「酒飲みの喧嘩の仲裁に入るバカ」というのがあるのにかかわらず、仲裁に入ると、えらいとばっちりを受け、眼鏡は吹っ飛ばされて壊されるは・・・大変でした。しかも「大工の親方」は、なかなか腹の虫が収まりません。・・・で私が人質みたいになって、大工の家まで行き夜明けまで「まあまあ・・・そう言わずに・・・」となだめ、すかし、酒の相手をしました。(後日、眼鏡は運送屋さんが新しいものを買ってくれました。)
不思議です。それだけ呑んでも全く酔わないのです(^_^;)
こんな経験は後にも先にもその時だけです。
ちなみに最近は、いつも酔いすぎております。(^_^;)
社員になって1年ほどは、ほとんど休まず現場に出ていました。先輩方は[休んでいいよ!]って言ってくれるのですが、1日休むとその日の現場でやる仕事が覚えられないのが嫌なので、その日は普段よりは少しゆっくりして現場に出て行きました。お金のことはあまり考えたことはありません。現場に行くと先輩方は喜んで交代してくれました。
仕事を覚えたくて、飲み会でも手帳にメモをとるので[お前バカか!]と言われたこともありました。負けん気が強かったのかも分かりません。
私は会社の独身寮にはいっておりましたが、ほとんどの人が帰ってくるのは、早い人で午後9時過ぎでした。
現場に入ると色々な職人さんから[これはどうしますか?]などと聞かれます。そんな専門的なことを聞かれても入ったばかりの監督さんに分かるはずがありません。聞かれると、[今まではどんなにしていましたか?・・・うーん!じゃーそうしましょう。]というのが背いっぱいでした。電話がかかってくるたびにドキッとします。これが深刻になると多分ノイローゼですね。結局何も分からないし、どうしたらいいのかな~と悩みました。俺は何が出来るだろう・・なにも出来ない・・・昼間は大工さん達の手伝いをしたり、夜は職人さんが帰ってから掃除をする。・・・特に掃除は小さな気づき学びがあり、これがのちのちいかされ、大変勉強になりました。
就職してすぐに現場を持たされされました。東京北区にある本社のすぐ近くの4階建ての事務所併用住宅です。[施工図描けるかい!]って主任にいわれ[描いてみます!]といったものの・・・[施工図ってなに!(^_^;)・・・]学校ではそんなこと習っておりません。はじめて聞く言葉でした。先輩に見本の施工図をもらい、教えて頂きながら描いてみるのですが、伏せ図と、おがみ図が理解できず、4回も5回も主任の赤鉛筆のチェックを受けてやっとOKをもらったことでした。
学校卒業後は東京に憧れの人(男性です)がいるというそれだけの理由で、東京の岩本組に就職しました。寮は南浦和にありました。岩本組は立派な良い仕事をする建築屋さんで、高名な設計事務所の仕事を特命で多くやっておりました。その作品の中には小説家の海音寺潮五郎邸や建築家の歴史に残る吉村順三氏の自宅、東京ガスの社長邸等有名人の邸宅の実績が沢山あります。でも私はそんな高級な邸宅にはあまり縁が無く、ビル建築が多く、特に武蔵野銀行関係の仕事を多くやらせて頂きました。銀行に関係の深かった猪俣常務直属の部下になった事もありました。
19歳頃だったと思いますが、神戸で建築の営業のまねごとをやっていまして、お客様との会話の中で色々な専門用語がでてきて[これは少し勉強をせんといかん!]と痛切に感じて大阪の修成建設専門学校に入学しました。(何しろ私は文化系で高校は普通科、しかも数学は苦手ときています。しかし、苦手なことに挑戦してこそ人間大きくなれるなどと聞いてましたので・・・)学校の総務にアルバイト学生として雇って頂き、しかも無料で寮に入れて頂き、給料をもらいながら、朝は教室の掃除をし、昼間は学校に通い、夜は夜間生のお世話をしたり、総務の仕事をしながら卒業させて頂きました。(現在はこんな制度は無くなっていると思います。)校長先生をはじめ修成の皆様には大変お世話になりました。m(_
_)m